板室温泉大黒屋では、9月29日より上野友幸展「Borrowing landscapes, Borrowing lives」を開催しております。
上野さんは、東京芸術大学大学院先端芸術表 現修士課程修了後に渡独。ベルリン芸術大学にてマイスター課程を修了。現在もドイツ・ベルリンを拠点に活動しています。日常的に存在するものの形態やイメージと歴史的な彫刻的構造や絵画的イメージを対峙又はミックスさせることで、イメージや彫刻が認識に与える原理、特性について探求しています。
以下作家による展示に向けて、
「今から丁度3年前の2020年に板室温泉大黒屋の個展に招待され、私は活動場所のベルリンから板室へ行き、最初の二週間を裏山で過ごした。誰も通ることのない険しい道は10m毎に崩れている。もし、自分がこの崖から落ちても発見されないのではないかという心配と、自然との一体感をいつも同時に感じていた。コロナで病院で死ぬのとは違い、ここで死ねば土に還り、生命が循環する山の一部になれると思った。それは街中で感じる死の意識とは全く違う。枯れ枝を拾ったのはその枝もまた土に還ろうとしていて、その流れに触れたいと思ったからかもしれない。
大量の枝を繋ぎ合わせた作品は朽ちていくことを暗示させると同時に、生命の連なりや、関係、繰り返される生命を感じとることも出来るだろう。森が一つ一つの木から構成されているように、その木も数億年前から受け継がれてきた命であるように、繰り返されるパターンにはこの世を構成する普遍性があると言える。枝を探して森を歩いていると、毎回自分が自然の一部になったような感覚になる。これまで素材をお店やオンラインで購入していたことに対し、この制作は自分の体を使って自然の中から発見・収集し、生きることと制作することが一致した感覚を覚えた。一般的に販売されている素材は制作しやすいように加工されている。クリエイティブなのはそれを利用する側ではなかったのかもしれない。自然の中に芸術を見出せたときに、芸術は生活の一部になり得るのではないだろうか。
日本は古来から自然を信仰してきた。鎮守(ちんじゅ)の森とは境内やその周辺に、神殿や参道、拝所を囲むように設定・維持されている森林である。本来の神道の源流である古神道には、森林や森林に覆われた土地、山岳・巨石や海や河川など自然そのものが信仰の対象になっている。
一方、西洋ではどうか。聖書をたどると、アブラハムは木の下に祭壇を築いたとある(創世記、13・18)。また、イエスは神の国を「からし種」に例えて説明し、それを「捲くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る」と説いた(マルコ、4・30-32)。このように、天上と至聖所、すなわち聖堂を樹木などの植物の比喩を介して関連付ける記述が散見する。樹木を模したゴシック教会が造られた所以である。
その後私は土と人類の関係に興味を持ち、陶芸を始めた。土と砂の違いは、腐植物を含んでいるところである。人類のことを英語でhumanというが、腐植のことはhumusという。これらは語源が同じであり、旧約聖書の「土の塵からアダムを作り」という一節にも、東洋の「人は土から生まれ土に還る」という考えにも通じる。
人もあらゆる生命も、生まれてからいろいろあって土に還る。そんな単純なことを難しくしないで表現することを大切に制作している。」
上野友幸