2026年9月4日金曜日

2026年9月 平井 明子展

 板室温泉大黒屋では、英国・ロンドンを拠点に活動する陶芸家・平井明子の、日本では初となる個展を開催いたします。平井は日本で認知心理学を学んだ後に渡英。ウェストミンスター大学、ロンドン芸術大学セントラル・セント・マーチンズで陶芸を学び、2003 年よりロンドンを拠点に制作を続けています。本展では代表作「Moon Jar」を中心に植物の種の莢から着想した「Poppy Pod」、ジョルジョ・モランディの静物画を出発点とする「Morandi Bottles」の3 つのシリーズ、およそ70 点をご紹介します。






 平井の代表作「Moon Jar」の出発点となったのは、ロンドンの大英博物館で出会った李朝の月壺でした。なかでも平井が惹かれたのは、イギリスの陶芸家ルーシー・リーが寄贈したとされる一つの月壺です。上下二つの器を接合した跡、口縁に残る小さな欠け、土に含まれた不純物による鉄の斑点。真っ白で無垢な満月のような形を目指してつくられたはずの壺には、制作の過程や、その後に過ごした時間によって生まれたさまざまな痕跡が残されていました。平井はそれらを、単なる傷や不完全さではなく、壺が経験した「出来事の跡」として捉えます。

 その考えは、自身の「Moon Jar」にもつながっています。窯の中で高温によって柔らかくなった土は、重力や上部の重みによって沈み、傾き、歪み、ときには完全に潰れてしまいます。平井は長年の制作を通して、土や釉薬が起こす化学的、物理的な変化をある程度予測しながらも、すべてを意図通りに制御するのではなく、素材が環境に応答することで生まれる変化を受け入れています。

 焼成という環境をくぐり抜け、最終的に残った形や表情そのものを作品として受け入れる。そのため、一つひとつの「Moon Jar」には異なる傾きや歪み、表面の変化が現れます。

 平井にとって「Moon Jar」は、古典的な月壺の形を再現するものではありません。制作の過程で壺が経験した出来事と、そこに残された痕跡そのものが、作品の見どころとなっています。



 「Poppy Pod」は、約10 年前、植物をテーマとしたグループ展への参加をきっかけに生まれたシリーズです。花が落ちたあとに残るポピーの種の莢や、ドイツの写真家カール・ブロスフェルトによる植物写真から着想しています。特徴的な白く荒れた表面は、ロンドンで目にした、湿気による白華現象で粉を吹き、崩れかけた煉瓦壁から着想しています。その質感を種の莢へと移すことで、平井は「化石化した種」のような、何かが長い時間眠り続けている姿を想像しました。このシリーズは、その後「Content &Container(中身と入れ物)」という考えへと展開します。私たちが見ることのできるのは外側の「殻」ですが、その外側を見ることで、むしろ目に見えない内側を想像する。平井はその内部に、眠っているのか、成長しているのか、あるいは外へ出る時を待っているのか分からない、「生きているもの」を想定しています。




 「Morandi Bottles」は、イタリアの画家ジョルジョ・モランディの静物画から着想したシリーズです。平井がモランディの静かな静物画に見ていたのは、瓶や器そのものだけではなく、物と物の間に生まれる空間や光でもありました。ボトルの表面には面取りを施しながらも、「描きかけの絵」であるならすべてを完成させなくてもよいのではないかと考え、あえて途中で削ることを止めた作品もあります。

 複数のボトルを並べることで、その配置によって形と形の間に異なる空間が生まれます。制作を続けるうちに、ボトルは次第に人間の身体を思わせる存在へと変化していきました。平井が暮らすロンドン・ハックニーは、さまざまな文化的背景を持つ人々が生活する地域です。街を歩く人々には、背の高さや体型だけでは説明できない多様なプロポーションがあり、そこに姿勢や動き、それぞれの個性が加わります。

 平井はボトルをつくることを、「ろくろの上でハックニーの人々をさらっとデッサンしている感覚」に近いと語ります。一つひとつの形だけでなく、その組み合わせによって生まれる空間や影、そして人のような気配も、このシリーズを構成する要素となっています。




 このたび、日本では初となる個展として作品を一堂にご紹介できることを嬉しく思います。

長年ロンドンで制作を続けてきた平井にとって、日本で作品を発表することは、海外での展示とはまた異なる特別な機会でもあります。私たちもこの展覧会を楽しみに準備してきました。

 ぜひ作品を前に、それぞれの形や表情をゆっくりとご覧いただけましたら幸いです。


会期 : 2026年9月4日(金) - 9月29日(火) 10:00 - 17:00

※9月4日のみ13時から開館いたします。

※展示は宿泊以外の方もご覧いただけます。

2026年8月26日水曜日

第262回 音を楽しむ会

 8月の音を楽しむ会は大黒屋オペラによる演奏会でした。今回は「ヴェルディ 椿姫 名場面」をテーマに、通常2時間ほどかかるオペラを40分ほどに凝縮して演奏してくださいました。


〜出演者〜

ヴィオレッタ:和田奈美さん(ソプラノ)

アルフレード:城宏憲さん(テノール)

ピアノ:中橋健太郎左衛門さん


〜第1幕:華やかなパリの夜会〜

パリの高級娼婦ヴィオレッタは、華やかな社交界の花として暮らしています。彼女に一途な愛を寄せる青年アルフレードと出会い、ヴィオレッタも彼の純粋な愛に心動かされます。

静かに照明が落ちたステージに、ぽつりと浮かび上がるピアノと中橋さんの姿。切なく哀愁を帯びたピアノの音色が、会場の空気を一瞬で引き込みます。しかしその静寂を破るように、オペラ『椿姫』の「乾杯の歌」が響き渡ります。城さんの甘く深く、安心感に満ちた歌声。そして和田さんの、どこまでも澄み渡る伸びやかな歌声。二人の声が重なり合い、鮮やかな色彩となって会場を満たしていきました。




〜第2幕:田舎での暮らしと悲劇の別れ〜

2人はパリ郊外の家で静かに幸せな暮らしを始めます。しかし、アルフレードの父ジェルモンが訪ねてきて、「娼婦との交際が娘(アルフレードの妹)の縁談の邪魔になる」と告げ、別れを迫ります。ヴィオレッタは愛ゆえに身を引くことを決意し、アルフレードに理由を告げず別れの手紙を残して去ります。事情を知らないアルフレードは裏切られたと誤解し、夜会の場で大勢の前にヴィオレッタを侮辱してしまいます。

ヴィオレッタの悲しく切ない決断と、アルフレードの裏切られた憤り。お互いを心の底から愛していたからこその決断と行動が、お二人の表現力豊かな歌声によって熱演されました。特に、アルフレードがお札を握りしめてヴィオレッタを侮辱する場面の鬼気迫る表情は、同じ空間にいるからこそ伝わる熱気にあふれ、非常に見応えがありました。

〜第3幕:悲劇の結末〜

結核の悪化で床に伏せるヴィオレッタの元へ、真実を知った父ジェルモンからすべてを聞いたアルフレードが駆けつけます。2人は再会を喜び合いますが時すでに遅く、ヴィオレッタはアルフレードに看取られながら静かに息絶えます。

病床のヴィオレッタを一人にしてしまったアルフレードの後悔と、会えなかった時間を取り戻すかのように愛を伝える焦燥感。 対するヴィオレッタは、アルフレードに心配をかけまいと健気に明るく振る舞いながらも、その裏に寂しさや苦しさを滲ませます。二人で過ごす儚くもどこか温かみのある最後の時間を、歌声だけでなく、表情、仕草、そして照明の演出によって存分に堪能することができました。



劇場とは一味違う、演者との圧倒的な近さが生む臨場感に終始圧倒されっぱなしでした。40分という濃密な時間の中に『椿姫』のドラマが凝縮され、大黒屋の空間に響き渡る演者の息遣いや震えるほどの熱量が、ダイレクトに心に響く素晴らしい時間となりました。




次回は9月26日(土)クラヴィコード 内田輝さんによる演奏会です。

どうぞお楽しみに!

2026年7月31日金曜日

2026年8月 Daikokua Gallery Show

 板室温泉大黒屋では、2026年7月31日(金)から8月31日(月)まで、「Daikokuya Gallery Show」を開催いたします。大黒屋では、「保養とアートの宿」をコンセプトに、1980年代後半より展覧会活動を続けています。旅館は、日々の暮らしから少し離れ、心と身体を整える場所です。温泉に浸かり、自然を眺め、料理を味わい、静かな時間を過ごす。その穏やかな時間の中で作品と出会うことによって、普段は見過ごしてしまう感覚や、知的な好奇心がゆっくりとひらかれていくことがあります。私たちは、そのような時間もまた「保養」の一つのかたちだと考えています。温泉や自然の中で、ふと作品と向き合い、その背景にある思想や制作への姿勢に触れることで、ものの見方や感じ方が少しだけ変わる。そのような静かな体験を、この宿で育んでいきたいと考えています。



 これまで大黒屋では、現代美術をはじめ、陶芸、漆芸、木工、竹工芸、ガラス、染織、植物など、分野を限定することなく、50名を超える作家・作り手とともに展覧会を企画してきました。作家がどのような眼差しで世界を見つめ、どのような問いを抱きながら制作を続けているのか。その姿勢に惹かれ、対話を重ねながら展覧会を積み重ねてきました。

 私たちが考えるキュレーションとは、作品を通して作家の視点や思考をご紹介し、お客様と作家をつないでいくことだと思います。一度きりの展示ではなく、継続して作品をご紹介すること。その積み重ねによって、作品だけではなく、一人でも多くの方に作家を知っていただくこと。そして、作家の活動を長く見守りながら、その歩みをともにご紹介していくことも、大黒屋の大切な役割だと考えています。本展では、そのような展示活動の中から、これまで大黒屋で個展を開催してきた9名の現代美術作家による作品をご紹介いたします。



 表現はそれぞれ異なりますが、共通しているのは、世界を深く見つめる眼差しです。日常の中にある小さな違和感や美しさ、時間の積み重なり。目には見えない関係性や記憶を、それぞれの方法で作品へと結びつけています。作品は答えを示すものではありません。静かに問いを投げかけながら、私たち自身の見方や感じ方を少しだけ揺らし、新たな風景を見せてくれます。

「Daikokuya Gallery Show」というタイトルには、大黒屋が長年続けてきたギャラリー活動 ─ 作家をご紹介し、その視点や作品との出会いを育みながら、人と作品、人と作家をつないできた歩み ─ を表しています。本展が、それぞれの作家を知り、その制作や活動へ興味を持っていただくきっかけとなれば幸いです。



 旅館だからこそ、生まれる作品との出会いがあります。温泉に入り、食事をし、散策をしながら、ふと作品のことを思い返す。翌朝、もう一度作品の前に立ってみる。そんな時間の流れの中で、作家の視点が少しずつ自分の中に残り、作品との関係もゆっくりと深まっていく。そのような作品との出会い方もまた、この場所ならではの体験なのかもしれません。

 夏の板室は、那須の自然が最も豊かな表情を見せる季節です。作品とともに、この土地ならではのゆっくりと流れる時間も味わっていただけましたら幸いです。どうぞご高覧ください。 


出品作家

磯谷博史、上野友幸、加山幹子、菅木志雄、五月女哲平、田幡浩一、手塚愛子、八木夕菜、

山本雄基


会期 : 2026年7月31日(金) - 8月31日(月) 10:00 - 17:00

※7月31日のみ13時から開館いたします。

※展示は宿泊以外の方もご覧いただけます。







2026年7月26日日曜日

第261回 音を楽しむ会

7月の音を楽しむ会はソプラノ 横井香奈さん、ピアノ 北村晶子さんによる演奏会でした。


今回の演目は...

       1. ビゼー:歌劇「カルメン」より ハバネラ

       2. カッチーニ: アヴェ・マリア

       3. ヘンデル:歌劇「リナルド」より 私を泣かせてください

       4. ピアノソロ

       5. チレア:歌劇「アドリアナ・ルクルヴール」より 私は神の卑しい下僕です

       6. 成田為三:浜辺の歌

       7. 木下牧子:さびしいカシの木

       8. F.ロウ:「マイ・フェア・レディ」より  一晩中踊り明かしたい

       9. ピアノソロ

     10. A.ピアソラ:オブリビオン

     11. カールマン:喜歌劇「伯爵令嬢マリッツァ」より 聞こえるジプシーヴァイオリン




ジョルジュ・ビゼーのオペラ「カルメン」より「ハバネラ」で華やかに開演。名曲ならではの、圧倒的な生歌の迫力は圧巻でした。


ウラディーミル・ヴァヴィロフ作曲の「アヴェ・マリア」。カッチーニ作曲として広く知られるこの曲は歌詞が「アヴェ・マリア」のたった一言。しかし、その一言から連想される感情は嘆きや悲しみ、願い、そして希望など実に様々で、横井さんの色彩豊かな歌声によって見事に表現されておりました。


ピアノソロではジュール・マスネ作曲「タイスの瞑想曲」、リベラ「Far away(彼方の光)」を披露。一音一音とても繊細で、ピアノから紡ぎ出される多彩な音色に、会場全体がじっと聞き入っていました。


西洋の歌曲以外にも、成田為三作曲「浜辺の歌」や木下牧子作曲「さびしいカシの木」を演奏していただきました。 日本語と外国語の言葉の違いもあるでしょうが、日本語特有の発音の仕方や等拍リズム、間の温かさにより、言葉にできない感情を受け取ることができました。


アンコールの「故郷」は会場の皆様とご一緒に歌唱。体を揺らしながら歌う人、涙を堪えながら歌う人など、懐かしさのある曲を思い思いに歌っておりました。


北村さんと横井さんがお互いをリスペクトし合うからこその掛け合いによって、表現力豊かなピアノのメロディーと感情を揺さぶる歌声がよりいっそう際立ち、心ゆくまでお二人の演奏を堪能することができた音を楽しむ会となりました。






次回は8月26日(水)中橋健太郎左衛門さんによる演奏会です。
どうぞお楽しみに!

2026年7月3日金曜日

2026年7月 吉田 佳道 展

 板室温泉大黒屋では、2026年7月3日(金)から7月28日(火)まで、竹工家・吉田佳道の個展を開催いたします。当館では初めての個展となります。吉田佳道は、長野県安曇野市を拠点に活動する竹工芸作家です。1988 年に大分県別府にて竹工芸を学び、1993年に安曇野にて独立。以来、「竹の工芸 よしだ」として花籠をはじめ、茶籠、盛器など、日々の暮らしに寄り添う竹の仕事を続けてきました。


 日本の竹工芸には、茶の湯や花の文化とともに育まれてきた歴史があります。吉田の仕事もまた、その確かな技術の上に成り立っています。しかし、その関心は技巧そのものを示すことよりも、日常の中で自然に使われることへと向けられているように思われます。吉田が手掛ける作品は、使うことを前提として生み出されたものです。細く割られた竹ひごは、編まれ、曲げられ、組み合わされることで、軽やかでありながら確かな構造を持つかたちへと立ち上がります。また近年は、編むことを前提としてきた竹工芸の枠にとどまらず、あえて編まない竹の表現にも取り組みながら、素材との向き合い方を広げています。その仕事には、確かな技術に支えられながらも、どこか穏やかで親しみのある空気が漂っています。

 
 吉田の作品には無理のない美しさがあります。それは強い造形性を主張するものではなく、素材の性質や用途に丁寧に向き合うことで生まれる、静かな端正さと言えるかもしれません。作品はあくまで静かにそこにあり、暮らしの風景の中に自然と溶け込んでいきます。

 とりわけ吉田の花籠には、花を活けるための細やかな工夫が込められています。銅製の落としの形状や位置、倒れにくくするために施された見えない重りなど、それらは花が自然に収まり、安心して使うためのものです。そのような工夫は決して目立つものではありません。しかし、使い続ける中で、作品がいかに丁寧につくられているかに気づかされます。見えない部分にまで心を配ること。その静かな美意識もまた、吉田の仕事の大きな魅力と言えるでしょう。また、吉田の花籠には野の花や山野草がよく似合います。道端に咲く草花をひと枝活けるだけで、その場の空気は少し変わり、季節の移ろいが身近なものとして感じられます。



 本展では、花籠を中心に、竹の素材感と構造の美しさを感じていただける作品をご紹介いたします。夏の盛りを迎える頃、竹が生み出す涼やかな陰影と、手仕事の確かさ、そして暮らしの中に息づく静かな美しさに触れていただけましたら幸いです。

どうぞご高覧ください。


会期 : 2026年7月3日(金) - 7月28日(火) 10:00 - 17:00

※7月3日のみ13時から開館いたします。

※展示は宿泊以外の方もご覧いただけます。