2015年10月16日金曜日

タナカヤスオインタビュー 第2回 ファインアートの作家になるまで

昨日から掲載中の現在個展開催中のタナカヤスオさんインタビュー。
第2回を掲載いたします。

今回はもともとデザインの勉強をされていたタナカさんが
ファインアートの作家をめざすまでのお話をお聞きしました。







-学生時代はどうでしたか?

 僕は美術の絵画科、油絵学科出身ではなくて、もともと中部地方の芸術系の大学で
 4年間ファッションデザインを勉強していました。その後は就職ではなく、
東京に進学で上京してファッション専門学校に入ったんですが、一年で中退して。
次にファッションイラストレーションやドローイング、水彩の風景も描く、いわゆる
ファインアートとイラストレーションの中間のようなことをする学校で3年間勉強を
しました。ダブルスクールみたいな形で色んなところにも行ってましたね。
 ただファッションは好きでしたけど、今思い返すと我が出すぎていたのかなと。
距離を離して客観視したりはできていなかったのかもしれません。


  今はそのあたりでしたクリエイションや表現のトレーニングを基にファインアートの
 分野で作家活動をしています。





学生時代、先生が描いたタナカヤスオさんがモデルのドローイング

―子供のときはどうでしたか?作家になりたいと思っていましたか?

 子供のころは作家になるとはぜんぜん想像していませんでした。小学校のころは
図工の時間は嫌いではなかったですけれども、特別好きではなかったです。
小学校中学校高校と、トレーニングをしなくてもうまい人はいますから。
ああいう人は何か違うのかなと思っていました。

 高校のときから洋服が大好きになりました。モードに興味があって、たとえば
東京コレクションでやっているあたりのメンズブランドに憧れがありました。
当時はディオールオム(※1)のエディ・スリマン(※2)という人が活躍してきた
あたりで、ちょうどメンズファッションが変わってきた時代です。中世的な男性で、
細く長くて余計なものを省いて、色はモノクロ、フォーマルなロックというような。
それまでのファッションショーでいったら、ドルチェアンドガッバーナみたいな
マッチョな男性像か、ヒップホップやストリート系が主流で。そこからまた中性美とか
少年美という基準が作られた時代でした。僕が作っていたのはレディースなんですが、
いかにも女しか着られないというよりも、格好いい女性―マニッシュな感じとか割と
格好いい女のファッションを作っていました。
 装飾的な、余計なものは興味はなかったです。ミニマムとどうつながるか
わからないんですが機能的な形というものには興味がありました。たとえば新幹線や
戦闘機のデザインはかっこいいですが、設計者やデザイナーは機能性をとことん追及
していますよね。戦闘機だったらマッハで飛びながら撃墜されない、死ぬことがないと
いう事を追求した結果あのように美しくなった。無駄が省かれる。無駄なことをしたら
打ち落とされる。そういうものには惹かれていたと思います。今思い返すとそんな
感じですね。

―ファインアートの道に入ったきっかけはなんでしょう

 高校時代まではまったく絵を描いていなかったんです。大学に入って、デッサンも
あればデザイン画もあれば。ほぼ生まれて初めてに近い形で絵をしっかり描きました。
大学1年生でやっぱりこの感覚はファッションの感覚とは違うなと感じて、
ファッションをやりながらもひっかかってはいたんです。
 それは初めてデッサンの授業をやったときからで、絵はど素人ですから画家の先生が
教えてくださったことが新鮮でした。絵の授業ですからこうやって描くんですよと、
教えられる授業だと思ったら、「もっとよく見て」「ここをちょっとみてみなさい」
とか、「倍の時間見なさい」とか。「こう描くものだ」、とかじゃないんだ。
どういうことだろうと。
 あとは学生が描いたものはうまいものも下手なものもあるんですけれども、
「これおもしろいよね」と。美術の世界ではあたりまえなのかもしれないけれど、
当時は驚きました。



上京してから通っていた学校で描いたドローイング

 ファッションやクリエイションの勉強をして大学を出た後、ファッションデザイナー
になろうとしていましたがやはりこっちのほうが自分は向いているのではないかと
思いました。そこに正直になろうと思って絵画、ファインアート、そういったほうに
シフトしていきました。東京で学校に入りなおしたのも絵が描きたかったからですね。

―美術史の流れを研究されているような、絵画論的な作品とも感じられますが

 実はファッション史はやりましたけれど、どこか芸術専攻みたいなところで美術史を
正式に習ったことはありません。独学でちょっとずつという。それよりも描くという
ことのほうがウェイトが大きいと思います。ただこのやり方しか知らないんだ、
というのではなくて、色々学んだ上でこれを選んでいるというような、余白というか
余裕みたいなものも出ていればなと。まあ図書館とかギャラリーに1ヶ月ずっと通って
いるときもありますし。もちろんこの個展の前みたいにずっと家で描いているときも
ありますし。

―大黒屋現代アート公募展に応募したきっかけは?

 学校で絵を勉強していたとき、先輩が入選していたんです。こんな公募展が
あるんだと知って、審査員がすごいなと感じたのがきっかけです。
 
 1回目、2回目は1次審査で落ちて、3回目でいきなり大賞を取れたという。
今でもその電話は覚えています。大黒屋です、とかかってきたとき色々な考えが頭を
めぐりました。直接電話かかってくるということは入選くらいはしたのかな、
でも電話ということは作品が壊れたとかそういう問題かな?と思ったら審査が終わって
先ほど片付けも終わって、大賞ですといわれて。ほんとですか、と。
グランプリになったのは初めてでした。

 大黒屋自体は来たことはなかったんですが、告知であ、旅館なんだという。
何でアートなのかな、と思いましたがこの審査員の人たちと関係性があってやって
いるのであればおもしろそうだなと。
 授賞式ではじめて来たときはスタッフの皆さんも距離が近いし東京の感覚と違うので
ずいぶん戸惑いはありましたけれども。やはり菅さんの作品があったので共通点は
あるというか。大黒屋のように作家の活動にかかわっていくということはほかの
コンペではあまりないんです。クールな関係のところが多いので、驚きましたね。

―今回の個展をするにあたって考えたことはありますか?

 僕はインスタレーションとか、ライブ性のあるものをするのではないので、
出来上がっている絵画を置くということになります。そうすると、絵画制作のときには
余計なことを考えません。自分の距離感が作品とくっつきすぎず妥協せずにやり続けて
ある程度点数がたまれば形になるんじゃないかなということで考えていました。

 現在開催中の大黒屋での個展風景

   また、美術館のようなホワイトキューブ(※3)とは違う。ホワイトキューブは
 何もない空間に対して自分の作品のみがあるという感じなんですが、ここはもう作品が
 なくても機能している。そういう場所に作品がある種、外から入ってくるという形に
 なるので、それが合うのかどうなのかということは考えました。

 そこで空気というか、作品もやっぱり空気−呼吸のようなものがありますので、
ここの独特の空気と合うのかどうなのかと。でもまあもうちょっと大雑把に、
うまくいけば共存できるんじゃないか、と捉えています。あまり細かいことは
考えすぎないようにしていました。来ているお客さんとの関連もありますし、
違う距離感とかが出てくるのかな、新しい作品の在り方というのも1ヶ月たって
違うところも見つかればいい勉強になるなと思っています。



※1 「ディオール・オム」(Dior Homme)
フランスのファッションデザイナークリスチャン・ディオールが創立したファッションブランドの
メンズライン。

※2 エディ・スリマン(Hedi Slimane 1968-
フランス出身のファッションデザイナー。ディオール・オムの主任デザイナーを2001年から2007年まで
勤めるなど、「少年性」「ロック」をテーマとした作品に熱狂的なファンも多い

※3 ホワイトキューブ

近代以降の美術の展示空間の代名詞として用いられる、作品を自立的に見せるための中立的・象徴的な空間。
たいてい白い(無地の)壁と四角い部屋のためにこう呼ばれる。美術館、ギャラリーの多くで採用されている。




次回は明日、第3回「制作にかかわる感覚について」を
掲載いたします。

どうぞお楽しみに。